財としてのサービス
突然ですが日本では商業活動において「サービス」という言葉が一般的にかなり間違って使われているなあとおもっています。
資本主義経済が高度になって産業構造が複雑化した現在、サービスという言葉を「おまけ」とか「無料」とか言う意味だけで捉えているひとが多いおかげで結構いろんな人が苦労しているともおもいます。
現在のこの消費経済社会において、サービスは「無形財」なんですね。この無形財という概念を理解するということはたいして難しいことではないのだけれども、どうもわざと意識的に理解しようとしていない人が多いような気がします。もしかしたら金銭支払いについての認知的不協和のせいかもしれません。
たとえば、今、確定申告の時期が近づいているわけですが、この面倒な処理を自分でやらないで済ますには税理士の先生にお願いしなくてはなりません。裁判で自分が不利にならないようにするには弁護士の先生にお願いしますね。いずれもお金を払いますが、税理士の先生も弁護士の先生もなにかモノをお金のかわりにくれるわけではないですね。ノウハウをつかって、税務署なり裁判所なりの一連の手続きを円滑に、かつ不利にならないようにしてくれるわけです。この一連の活動は、無形財としてのサービスということになります。
こうした「士」がつく職業は、国もしくは公的機関にオーソライズされたものですが、本来ならこの先生たちに支払う対価はそのサービス(一連の顧客のための活動)に対して支払われるべきものなのに、実際はこの資格に対価を払っていると(もしかしたら認知的不協和的に)錯覚していて、サービスにお金を払う感覚が希薄です。
(実際には公的資格はある種の混乱と顧客の不利益を避けるための社会システムだし、これにかかるコストは大きい。だからそれに対する対価という側面はないこともないけれど、資格の名前だけで先生たちはお金を得ているわけではない)
こうした、いわゆる無形財としてのサービスを、どうやって価値付けて、顧客のもとに提供し、利益機会を作り上げるかということは、消費経済が高度化した中でのとても大事な課題だったりします。(公的資格というのはそのためのシステムの一つだったりする側面もあります。)
なぜ財としてのサービスにお金を払おうと思わないのか。これは単純で、財としてのサービスは商品とかと違って目に見えないものだし、蓄積されないものだから、手元に残らない。しかも消費した実感もわかりづらいから、手に入れて使ったと認めたくないんだと思います。
これは財としてのサービスを理解するための古典的なテキストですね。でもまあ、多少読みにくいかもしれない。
新版 サービスマネジメント入門
商品としてのサービスと価値づくり
これはもう少しわかりやすいテキストです。多少実務的だし。
で、ここでいくつか本を紹介して思ったんですが、これらはサービスを提供する側がサービスに無形財としての価値をいかにつくりだして提供していくか、高価値にして収益をあげていくかというテキストなんだけれども、それを一生懸命おこなったところで、この「財としてのサービス」という概念を啓蒙していくことはできるのかなあ?と多少疑問は残たっままなのです。
この「財としてのサービス」は今起こっている日本の社会システムのパラダイムシフトが絡んだとても大きなテーマっぽいので、また今度続きを書いてみようと思います。
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