本質的な差異と、理解
「この人は僕とは本質的なものの見方が違うのに、よくまぁお互いを理解したなぁ」
ということばかり思い浮かんだ。
すこし、つれづれに彼のことを書いていこう。
僕が大学2年のとき、彼は大学3年で、僕の当時の彼女の住む街に彼は住んでいた。仕事の帰りにいつも一緒に電車で帰り、駅で待ち合わせた僕の当時の彼女とコンビニに買い物に行ってから別れるというのが日課だった時期があった。
その街はいわばニュータウンで、画一的なつくりの街が広大に広がっていた。(いうまでもなく多摩ニュータウンのことです)
彼はその街のつくりの画一的なところ、それにおさまってしまう人間たちがよく理解できないようだった。ただ、通学に便利だから住んでいるようなもので、できればこんな文化的でないところには住んでいたくないということを言っていた。
そう、画一的なニュータウンには、人文学的なものを望むのは難しい。
彼は地方のゲマインシャフトの出身で、それはそれで好きではないようだったけれど、結局はゲゼルシャフトよりゲマインシャフトのほうが人間的だとかんがえたのか、後に下町に引っ越した。当然といえば当然だ。
でも僕は違った考え方で、こうした画一的な(マスプロダクティブな)街のデザインに機能美を見出していたし、そしてドライな関係性については潔さすら感じていた。僕はゲマインシャフト的なしがらみなんてなくても生きていけると思っていたのだ。
(若いころのそういう思い込みはたいていすこしズれているものだけれど)
そう、画一的なニュータウンには、計画美、機能美があるのだ。
こういったところから、同じ街について本質的な感覚のところで差異があった僕らだったけれど、それはお互いにそういうことを議論して、ああ、そういう考えがあるのかということをよく理解した。
たいてい、僕の考えていることと彼の考えていることはぜんぜんちがったのだけれど、彼は
「ああ、そういうふうに考えるのか、キミは」
という風に理解してくれるものなので、僕は僕で、自分とはぜんぜん違う考えをする彼を、その考え方ごと受け入れることができた。
若いうちのそういう関係性ってのはとても大事なことで、ぼくはかけがえのない時間を彼と過ごしたのだ。
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