クリエイティビティと非クリエイティブ
友人のn#さんについて、思い出をつれづれと、の、つづき。
彼はいつもクリエイティブであろうとしていた。また、クリエイティビティというものは才能とそれを補う日々の努力の両方が必要なのだけれども、彼はその両方を兼ね備えていた。
(努力できるという才能は、才能である)
気位の高い彼にとって、クリエイティビティのないことや人、また、クリエイティビティををおろそかにすることは我慢できないことのようだった。
実際、彼の仕事は高いクリエイティビティが必要とされていたのだ。
僕はそのころ、「非クリエイティブ」という言葉を好んで使った。クリエイティビティのかけらもないこの「非クリエイティブ」という言葉は、半ば自嘲的に、才能や努力する才能のない自分の免罪符のようにつかった。だけど、この言葉の本質はそんなことではなかった。
ある日、彼は僕に
「もう『非クリエイティブ』なんて言葉を使うな。それは自分の可能性を否定しているとは思わないか?」
といわれた。僕はそうはおもわなかったけど、議論すると長くなりそうだったので、長いことかけて、僕の人生で態度で示すことにした。
多くのクリエイティビティは、その土台に、非クリエイティブな作業があるおかげで、そのクリエイティビティが保たれているのだ。
デザイナーがデザインするための、その鉛筆、紙は、創造的というよりも、単純に生産的な作業で作り出されたマスプロダクトだし、その時間を作るために自分でする作業の多くは創造的ではなく、単純作業に他ならない。
独創的な創造性をえるためには、絶えず犠牲になる多くの無駄とおもえるような作業や人間、時間が費やされるのだ。
僕は自分の人生の中で、クリエイティブなことはほとんどおこなってこなかった。けれど、その非クリエイティブな仕事のなかで、他の人間のクリエイティビティを支え、飛び立たせてきたという自負がある。
だから、彼にああいわれた日よりずっと後、何年もたった後、
「僕の仕事は非クリエイティブだけど、他の人のクリエイティビティには必要不可欠なんだ」
という説明をしたとき、かれは納得していた。
それだけ、僕らは時間をかけて大人になったのだ。
人生の中では、友人との会話に、人生の時間をかけて、態度で示すこともある。
僕らは、お互いによき理解者であったと思う。
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