子供の壁画から感じる、知財ビジネスの閉塞感
これはある場所でみつけた、小学生がかいた壁画。味気ない工事機械置き場の外壁にボランティアとしてかかれたものです。
これをみつけた瞬間、やるせなくなりました。子供たちは、身近なキャラクターとして2つの絵を、作為なく「描いちゃった」。できあがったところをみた先生はドキっとしたのでしょう。そして、免罪符としてオリジナルキャラクターだということを示すように横に名前を「書いちゃった」。その結論に至るにはさまざまな葛藤があったのだと思います。
子供たちは何気なく身近なキャラクターを描いただけであって、なんら作為はない。それに対して白く塗りつぶしたりすることはもちろんできず、そのままにしておくとあとで面倒な問題がおきることも自明で、非常に葛藤した結果だとおもいます。が、その結果がとてもこっけいで、そしてとても悲しい、この名前というエクスキューズです。
これは、以前にあった事件から考えて、の、ことなのでしょうけれど、子供たちが描く絵にそういう制約をつけなくてはならなくなってしまったという事態は、由々しきことだと考えています。
ものを創造するということは模倣することからはじまり、そこにオリジナリティを加えていくという過程があるからこそ、そうして創造されたものについて価値が生まれるわけであり、その根本的なところで子供たち(や教育現場)が萎縮してしまうようなことはあってはならないと考えます。
アニメ・コミック・キャラクタービジネスをはじめとする知財ビジネスは、模倣なき創造はありえないのに模倣を許せないというジレンマが常に付きまといます。
例としてあげると、知財の模倣(パロディ)だらけの同人コミックの世界に対して、権利を振りかざしつぶしてしまうと、よい新人がそだたなくり、未来のビジネスが立ち行かなくなる。さりとて、放置しておくと、自社の知財の価値が相対的に低下するから、これはこれでビジネスがたちゆかなくなると危惧して対策をとらざるを得ない、ということがあります。
産経新聞:知はうごく:著作権攻防(6-3)模倣が生む才能
自分の知財を守るために血眼になってまわりを見回り、すこしでも侵害があると目くじらを立てるような件がおおくなっています。(どことはいわないけど、日本のアニメ・コミックから着想したくせに、その原案には対価を払わず、自身の成果については権利を振りかざす某WD社とかね。)
だけど、やはりそこにはバッファがあって、ある程度の寛容さを持っていなければ、やはりビジネスとての閉塞感は、取り去れないのではないでしょうか?
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