学問・資格

2008.04.29

日本語を話す外国人

ジェロ君がテレビに出ているのをみると、素直に「よかったね。がんばったね。」と思う。

海雪
ジェロ君

僕らが日本にいる限り、出会う外国人の半分くらいは日本語を話す。僕も多くの日本語を話す外国人に出会ってきたし、テレビでも毎日のようにそういう人(外国人タレントなど)を見る。それでも日本語を話す外国人はなにか「特別な人」だと思ってしまうのは、日本人が日本語を外国人に習得しにくい難しい言語だとおもってしまっているからだろう。(特別視している。)

ちなみに、僕が出会った日本語を話す外国人はこんな人がいました。(います。)

・ 中学の英語のアメリカ人先生(奥さんが日本人で日本在住)
・ 高校のスペイン語のバスク人の先生(宣教師で日本在住30年以上)
・ ソフトウェア会社のローカライズのマネジャ(たいてい日本留学経験がある)
・ イタリア在住の義弟(そもそも家族になる以前に日本文化会館で日本語を勉強した)
・ 留学生(いろんな国の)

いろんなバックグラウンドがあって、日本語へのスタンスもそれぞれ違うんですが、みんなよく話します。僕が日本語しかはなさないってのもあるのだろうけど。

僕は言語教育というのはよくわからないし、自分に外国語のセンスもないので適当なことしかいえないのですが、言語学習って、いくつかのブレイクスルーポイントがあるんじゃないかと思っています。
日本語を学習する上でのブレイクスルーポイントもいくつかあるとおもうけれど、そのひとつに漢字があると思います。

漢字はね、数が多いけど、あれが理解できるようになると、いっぺんに語彙が広がりますね。なんせ、意味のある文字の積み重ね(熟語)で単語になるわけだから、はじめてみる単語でも十分に意味が推測できる(そして理解できる)。

だから、日本語学習って今はわりと初期の段階から漢字をやるんですね。これは合理的だなぁとおもいました。
僕の義弟(妹のだんなさん)も、漢字はわりと得意で、漢字の熟語のほうが理解が早いことが多いです。(彼はそもそも日本語を勉強していたから、はじめて会ったときから日本語だった。)

漢字のそういう点に気づいたのは最近で、目からうろこが落ちた気分だった。だって、漢字って何千もあって、形もめんどくさくて、9年くらいかけて覚えるじゃないですか、僕ら。だから難しいものだと決め付けていたけど、後々のことを考えると、最初から(1年生レベルの漢字などで)漢字をおぼえてしまうほうが上達が早いみたいです。

つぎのブレイクスルーポイントは、ちょっとハードルが高いのだけど、和語ですね。熟語ってのは漢語で漢字なわけで、字さえわかれば次々にわかるというシステマチックな側面があって、わかりやすいのだけど、日本語は漢語は借用語であり、話し言葉では割合が少ないのです。そのかわり、自然発生的な語彙である和語が会話の半分くらいを占めます。

で、この和語は日本語オリエンテッドな語彙なので、ひとつずつ意味がわからないと使えない(漢語は分解してそれぞれの漢字の意味がわかればわかってしまう)ので、日本人が外国語をおぼえるように、とにかくおぼえなくちゃならない。実はそのボリュームは漢字を覚えるのより大きいかもしれないです。
さらに、いろんな意味があったり、微妙な違いがあったり、(外国語の基本語彙もそうなんだけど)ちょっと大変です。

「ダーリンは外国人」のトニー・ラズロさんも「和語は難しい」って言っていました。
ダーリンは外国人―外国人の彼と結婚したら、どーなるの?ルポ。
ダーリンは外国人

でも、和語を違和感なく使えるようになると、これは完全に日本語話者として熟練者になりますね。僕ら日本人だってあやしい和語はいっぱいあるし。
カタコトの日本語から、日本語会話へのポイントはこの和語の使い方だとおもいます。

こう考えていくと、僕らが外国語を習得するときも、最初は語彙を、そして文章を、という順番だから、同じなんだなっておもいました。

究極的には、人間同士がコミュニケーションが取れるのならば、誰が何語で話したってぜんぜんかまわないわけなので、僕も相手の言葉を話せるようになるといいなぁといつもおもうのですが、相手が日本語だとついつい甘えてしまいます。

<おまけ>
さらに突き進むと、発音と抑揚が完全に日本人と同じかそれに近い話し方をする外国人がいますね。
ソフトのローカライズで一緒に仕事した米国人たちはなぜかみんなそうでした。
タレントで言うと、セイン・カミュさんやパックン、それから、山形のダニエル・カールさん、ジェロ君もそうですね。

長いこと日本にいてここが超えられないデーブ・スペクターとかアグネス・チャンなどとどう違いがあるのかはちょっと不思議なところです。(カタコトっぽいほうが、タレントとして商品価値があると聞いたことがあるけど、そんなの意味はないよなぁ。)

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2007.07.04

斎藤昌三とその装丁


書痴斎藤昌三と書物展望社

前に紹介したぼくのおじいさんのおとうさん(おとうさんのおじいさん)に関する本ですが、読んでみるとまあ知っていることと、知らないことのミックスでした。(あたりまえか)
目録的に昌三の作品を紹介しているので、これは資料として(どんな作品を出していたか、そのときどういう状況だったかということがわかるので)とてもよかったです。

で、その記事を書いた後、ちょっとした出来事がありました。現在進行形の出来事なので、一通りことがすんだらこのブログで報告しますが、やはり、ポイントとなったのは「蓑虫3万匹捕まえて、本の装丁に使った」というあたりでした。

蓑虫の話を大叔母(昌三の長男のお嫁さん)と話したとき、新しい事実がわかりました。

「じつはね、浅草海苔でもやったのよね、本。私がお嫁に来たあたり」

大叔母がお嫁に来たのがいつ頃なのか良くわかんなかったのですが)大戦中か戦後すぐだとおもう)、浅草海苔で装丁された本ってのは、現在どうなっているのだろう???とかおもいました。

また、記事を書きます。

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2007.05.15

書痴斎藤昌三と書物展望社

島田洋七氏が自分の祖母の話を書いたらベストセラーになりましたね。
まあ、なかなか身内の話を本にして、みんなが見る機会というものもないんじゃないでしょうか?

僕のおじいさんのおとうさん(おとうさんのおじいさん)に変わった人がいて、その人をネタに八木さんという方が本を書いていたので、注文しました。(ちょっと意味がわかりにくいですね)


書痴斎藤昌三と書物展望社
(リンク修正しました)

八木さんというのは、古書界の生き字引のような方だそうです。
僕はこの斎藤の曾孫でありながら神保町界隈に足を踏み入れたことはなく、「書物展望」については京都の臨川書店が復刻したものがひとそろえ父の実家にあるのはわかるのですが、なんかさわっちゃいけないような気がして、手にしたことがありません。
曽祖父には会ったことはないけれど、変わった人だということは周りの人の話を聞くたびに感じていました。昔、月刊朝日かなんかにも取り上げられていましたが、まあ、変わった人ですね。
本の装丁を蓑虫でやってしまうなんていうのは、他にきいたことがありません。

自分のルーツを探るのに、その人が遺した本ではなく、他の人がかいた本を読むっていうのが、安直な感じではあるのですが、とりあえず入り口として昌三というひとがどういう人であったか(そして他人にはどう見えていたのか)を知ろうと思います。

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2006.10.02

漢字について考える(練習)

THE MAN IN MEのblueさんから漢字バトンを受け取っているのですが、なかなか書けずにいます。考えがまとまらない...

とりあえず練習代わりに僕を巡る漢字について書いてみようと思います。


「飽」
僕を漢字一文字であらわすとこれでしょう。子供のころから、社会人になってまで「飽きっぽい」「落ち着きがない」「集中力がない」...こればっか...
あれだけ気合入れて購入したDS Liteとマジコンだって、液晶に常時点灯1箇所でもうどうでもよくなってしまった。30代の大人としてはどうかと思いますね...

「人」
大事だけど間合いがもっと大事なもの。知らない人ばかりでぎゅうぎゅうの満員電車はウンザリですが、誰ともしゃべらない週末ってのもどうかと思います。

「女」
僕はこの人たちから、精神的に自立することなく、一生を過ごすのだと思います。どんな形にせよ。

「薬」
毒にもなる薬ですが、付き合い方をうまくして、僕の生活を支えています。と、いうか、薬のことを考えると結構医師も患者も大変です。

ああ、こうやって少しずつ考えていこう。漢字バトン、完成させますよ。(待たせすぎ)


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2005.07.06

大人の教科書 大人としての教養 ゆたかな人生

大人の教科書 理科の時間
大人の教科書 理科の時間

今週はこれを読んでいました。マンガばっかり読んでいるわけじゃないのです。

理科は興味があったですが、複雑になるにつれて苦手な教科になりました。それともうひとつ苦手になった理由は「理屈のくせにきりがない」ということですね。性急に答えを求める若い男にはなかなかもどかしい学問でもあります。(まだ若いんだよ!)

良い本でした。結論としては「まだ結論が出てない」ということを大人の言葉で語っていて、かつ中学生にでもわかるように噛み砕いた本でした。

良い本というのは8割くらい自分が知っていることが書いてあって、「うんうん」とうなづきながら読んでいくと2割くらい自分の知らない新しいことが身につく本のことだとおもっています。これはまあ、まさしくそうでした。

大人になって、子供のころ学んだことのほとんどを忘れちゃってはちょっと悲しいしね。

さて、僕はよく「なんでそんなことしってるの?」ってことを言われます。この言葉の裏には「そんなべつにいらんこと知ってる必要もないのに」という気持ちが混じっていることも僕は知っています。いつもあいまいに答えることにしているのですが、それには理由があります。

人間が生活していくなかで大事なことっていうのがいくつかあるのですが、それは大まかに時間・お金・健康・愛情・知識(教養・情報・諜報)だとおもいます。
それぞれはそれがすべてではありませんね。お金だけの人生なんか悲しすぎます。だけれどもこれらはどれも実は大きな相関関係をもっていて、どれかが大幅に欠けると、ほかの要因も引きずられていってしまいます。

むかし、三鷹さん(めぞん一刻のテニスのコーチ)が、「お金があれば愛は潤います」っていいました。そう、お金・健康という物理的な問題はそれが人間のすべてではないけれど、観念的な問題のささえとしては大きな役割を果たします。愛のないお金は悲しいけれど、お金のない愛もひずみを生むのです。

こうした物理的要因(時間・お金・健康)というのは個人の努力でどうにかなる部分が実はたいしてなかったりしますが、観念的(愛情・知識)要因を大きくするためにはとても役立ちます。

逆に観念的要因というのは自分の努力による事が大きいです。そりゃ物理的要因のささえがあれば、それにこしたことはないけど、お金も健康もなくてもこれらの要因を育ててきた人間なんてたくさんいます。そしてそれらが大きく育ったときに、それらがもとでお金ができて、そのおかげで健康も維持できて、時間も有効に使えるようになったりする人もいるのです。

このように、豊かな人生を送っていくには、その人生を形成するいくつかの要因をそれぞれ高めていくことが大事で、物理的要因を自分の力だけで育てていくことは大変なのだから(物理的にない、とかすくない、ということから育てていくことは物理的に大変なのは自明)、取り組みやすい観念的要因を育てていこうとおもうのも、これ至極当然の理屈なんですよね。

つまり、自分と自分のまわりの大事な人を愛して、いい人間関係をつくって、自分の知っていることを増やして、それを役立ててお金や健康を育て、そそうしてできてきたお金をつかって時間を有効につかってさらにお金を育て体を休め(健康をそだて)、そしてそうしてできた時間と健康とお金で、教養や愛情を深めていくということが、豊かな人生だとおもっているのです。

そうなるとね、「何で知っているの?」という質問に対して僕はいつも「何でしろうとしてなかったの?」と思ってしまうのです。そういうことをいってしまっては、表面的には「なんだこいつナマイキな」となっちゃうわけだからいわないし、さらにいうと僕が僕の人生を豊かにする方法をわざわざ人に教えてあげる必要もないので(こころ狭いなあ)、えへへ、と適当にごまかすことになっちゃうのです。

僕にとって森羅万象の出来事について「知ろうとする」ということをしないということは、そこらじゅうに砂金とか金塊が散らばっているのをあつめないことと同じ意味です。そんなことをいうと「人間しらないほうがいいこともあるんだ」という人もいますが、それはまあ「もらっちゃいけないお金」ってのがあるのといっしょで大人の事情でうまくやるもんですよ。


知識だとか教養だとかは、得るにそんなに物理的コストのかからないことがおおいのだから、得られるものなら得ておいたほうが、あとでお金や時間や健康に影響をあたえて人生そのものが豊かになりますよ。

(ああ、こういうこは秘密にしておきたかった)


他の「大人の教科書」シリーズはこちらから。

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2005.03.20

術語集、そして琉伽といた夏

気持ちを安らかにするために、本を読んで自転車をこいでいました。

まずこれ

術語集 気になることば
中村 雄二郎 岩波新書

現実や世界を読み解いていくためのキー・ワード=術語。現在の〈知の組みかえ〉の時代にあって、著者は、記号、コスモロジー、パラダイム等、さまざまな知の領域で使われている代表的な四〇の術語と関連語について、概念の明晰化を試みながらそれを表現の場で生かそうとする。現代思想の本質が把握できる、〈気になることば〉の私家版辞典。 

これ大学受験のときに受験のために買ったんですが、入試に役立てることをしないで(そういう科目を選択しなかった)、そのあとの大学の勉強に役立てた覚えがあります。受験勉強がその後の人生に役立った例ですね。
今読んでも実に意味のある書です。僕自身は記号論の基礎知識として捕らえたんだけれども記号論はちゃんと勉強したとはいえないなあ。

つぎにこれ


琉伽といた夏
外薗昌也 ヤングジャンプコミックス

平穏な日常を送っていた遠野貴士と弥衣兄妹。だが、ある夏の朝、弥衣は空を覆った不気味な閃光の直撃を受けた!! 奇跡的に命はとりとめたものの、その直後から不審な行動をとり始める。妹の身に起きた驚愕の真実とは!?

これはSFモノですね。全4巻で一気読みにはちょうどよいボリウムだったのです。外薗昌也氏は「目に力のある」絵を書きますね。ただまあ、兄って妹に対してこんなにコミットした日常生活をしていたかなあ?と、兄としては思います。

そして自転車を3時間くらいこいでいました。オフィスに行かない休日って素敵。

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2005.03.18

大塩平八郎の妹の名前

高校2年のとき、大学受験のために3年からの選択科目を検討するという段になってクラスメイトが

「○○大学の△△学部の日本史って半端なく難しいらしいよ」

と言い出しました。彼が言うには

「中堅有名人の妹の名前が出題されるくらい難しい」というものでした。

「中堅有名人って誰だよ?」
「大塩平八郎くらいじゃない?」
「大塩平八郎って中堅か?それより知名度は上じゃないか?ってか大塩平八郎に妹っているのかよ?」
「超有名ではないだろうから、中堅だろ。それに妹なんか知らないよ。だから難しいって言ってんだろう。」

このどうしようもない会話で僕は大学受験の社会の選択肢から日本史をはずしました。若いって恐ろしい。

日本歴史占い。これをやってみました。僕は空海でした。空海がどんな人かはよくわからないけれど、多少むずがゆい結果です。

さてこれを見ていると「大塩平八郎」なんてでてきません。そうするとやはり彼は「超有名人」ではなくて「中堅有名人」なんでしょうか。「八百屋お七」がいるのに「大塩平八郎」がいないとなるとやはり「中堅有名人」なんでしょうね、平八郎。

いまだに大塩平八郎の妹の名前どころか、彼に妹がいたかどうかも知りません。誰か教えてくれるとうれしいです。

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2005.01.29

財としてのサービス

突然ですが日本では商業活動において「サービス」という言葉が一般的にかなり間違って使われているなあとおもっています。

資本主義経済が高度になって産業構造が複雑化した現在、サービスという言葉を「おまけ」とか「無料」とか言う意味だけで捉えているひとが多いおかげで結構いろんな人が苦労しているともおもいます。

現在のこの消費経済社会において、サービスは「無形財」なんですね。この無形財という概念を理解するということはたいして難しいことではないのだけれども、どうもわざと意識的に理解しようとしていない人が多いような気がします。もしかしたら金銭支払いについての認知的不協和のせいかもしれません。

たとえば、今、確定申告の時期が近づいているわけですが、この面倒な処理を自分でやらないで済ますには税理士の先生にお願いしなくてはなりません。裁判で自分が不利にならないようにするには弁護士の先生にお願いしますね。いずれもお金を払いますが、税理士の先生も弁護士の先生もなにかモノをお金のかわりにくれるわけではないですね。ノウハウをつかって、税務署なり裁判所なりの一連の手続きを円滑に、かつ不利にならないようにしてくれるわけです。この一連の活動は、無形財としてのサービスということになります。

こうした「士」がつく職業は、国もしくは公的機関にオーソライズされたものですが、本来ならこの先生たちに支払う対価はそのサービス(一連の顧客のための活動)に対して支払われるべきものなのに、実際はこの資格に対価を払っていると(もしかしたら認知的不協和的に)錯覚していて、サービスにお金を払う感覚が希薄です。

(実際には公的資格はある種の混乱と顧客の不利益を避けるための社会システムだし、これにかかるコストは大きい。だからそれに対する対価という側面はないこともないけれど、資格の名前だけで先生たちはお金を得ているわけではない)

こうした、いわゆる無形財としてのサービスを、どうやって価値付けて、顧客のもとに提供し、利益機会を作り上げるかということは、消費経済が高度化した中でのとても大事な課題だったりします。(公的資格というのはそのためのシステムの一つだったりする側面もあります。)

なぜ財としてのサービスにお金を払おうと思わないのか。これは単純で、財としてのサービスは商品とかと違って目に見えないものだし、蓄積されないものだから、手元に残らない。しかも消費した実感もわかりづらいから、手に入れて使ったと認めたくないんだと思います。


サービス・マネジメント

これは財としてのサービスを理解するための古典的なテキストですね。でもまあ、多少読みにくいかもしれない。


新版 サービスマネジメント入門
商品としてのサービスと価値づくり

これはもう少しわかりやすいテキストです。多少実務的だし。

で、ここでいくつか本を紹介して思ったんですが、これらはサービスを提供する側がサービスに無形財としての価値をいかにつくりだして提供していくか、高価値にして収益をあげていくかというテキストなんだけれども、それを一生懸命おこなったところで、この「財としてのサービス」という概念を啓蒙していくことはできるのかなあ?と多少疑問は残たっままなのです。

この「財としてのサービス」は今起こっている日本の社会システムのパラダイムシフトが絡んだとても大きなテーマっぽいので、また今度続きを書いてみようと思います。

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2005.01.27

アシスタント・カラーコーディネーター

ACC

ホント突然なんですけど、「アシスタント・カラーコーディネーター」という称号を名乗ることができるようなりました。
アシスタントだけど。

去年の暮れの少し前、仕事が半端なく忙しくて、参考書も買うだけ買ってろくすっぽ読まないまま試験が近づいてしまって、慌てて図書館で勉強するも仕事が気になってあまり頭に入らず(ってか結局持ち込んだノオトPCで仕事してた)、前日に徹夜で勉強しようとしたら寝てしまい、当日の朝試験会場の近くのJRの駅のコーヒースタンドで一生懸命悪あがきをした結果ですので、大満足です。

いきなりで、説明不足だから説明を。
カラーコーディネーター検定試験とは東京商工会議所が行っている検定試験です。今回、3級を受けました。いきなり上を狙おうにも、もともとデザインとかそういうことは勉強したことも、生活習慣でもなかったので3級のテキストでも頭がクラクラしたのですが、多少仕事に関係ある(ような、ないような)ことだし、自分の目先を多少変えてみたい気持ちもあり、受けてみました。

色が見えるしくみとか、文化のなかでの色の役割だとかそういうのは割と頭に入ったのですが、人間の視覚のメカニズムや、カラーオーダーシステム(色見本帳のような、色を系統立てるいくつかのしくみ)は正直しんどかったです。特にカラーオーダーシステムは基本中の基本で配色とか色彩調和に必須なわけなんですが、まあちょっとセンスがないのか、理解が難しかった。

(勉強そのもののセンスにも自信がない。センスという言葉自体にも自信がない。)

そんな男がどうして試験に合格したか?カンタンな試験なのか?というと、どうもそうでもないようです。

試験は7割正解で合格なのですが、僕は試験問題のなかで、「まるっきりわからなかった」という問題がジャスト3割あったのです。つまり、残り7割は「解答したはいいが、本当のところは自信がない」という問題だったわけで、そういう意味ではスレスレだったのです。実際今回の合格率は4割程度だったようで、鼻をほじりながら「フンフン」とかいって横になってせんべい食いながらテキストを見れば合格するという試験でもないです。

初級の資格試験だからこれで食えるようになるわけではないですが、少なくともまともにやっている検定試験なのでそこそこ勉強は必要なようですね。どんな試験もそうですけれど。

僕はこのテキストを使いました。
対策色彩検定・カラーコーディネーター検定2級・3級第2版 ( 著者: 清野恒介 / 島森功 | 出版社...
対策色彩検定・カラーコーディネーター検定2級・3級第2版

カラー関連のテキストはあたりまえですが多色刷りなので値段が高いのですが、これは値段がそこそこで内容にボリュームがあってお買い得感があったのです。

でもまあ、こういう資格試験って、仕事に使うかどうかも大事なんですが、それよりも生涯勉強しようというモチベーション作りにとても役立ちますね。人間何事も勉強です。資格だけとりまくってもつかわなきゃもったいないですが、こういう生活にも(仕事にもきっと)役立つ勉強はやって、成果が見えるとうれしいものです。

あと、今までの仕事や生活にあまり関係ない勉強も、今後の人生の方向性というか、視野が広がる感じがするのもいいなあと思います。

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2004.12.30

言語習得について考える

いくつか記事を書いている間にマシンがフリーズしてパーになりました。
代原っていうのはマンガみたいなはなしですが、いくつかストックがあるのでその中から。

このあいだ、ロオマの妹からイタリア語で書かれたチラシのPDFがメールで送られてきて、ちょぼちょぼとに読んでいたのですが、「3割くらいは意味がわかるなあ」とおもってすぐにこれがスペイン語でかかれていても3割くらいしかわかんないんじゃないのか?と思いました。3年ちかく勉強した(ことになっている)のに。

言語の習得にはセンスと忍耐力と経験と楽観的思考が必要なんじゃないかなとおもいます。前者2つは僕には無いような気もします。あとは繰り返しですかね。

センスの話をすれば、それがあるかどうかというのは本人には自覚しようも無いのですが、忍耐力については、自信をもって「無い」といえます。そんなことに自信を持ってもしょうがないですが。

僕のスペイン語の先生のうちの一人は毎回教室に入ってくるなり
「おはようみんな。さあ0から30まで数えましょう」
といってクラス全員いっしょに30まで暗唱させました。それと動詞の不規則活用についてもかなり。
おかげで不規則活用を伴う動詞の活用については大体覚えていますし命令法(命令形)だけが不規則活用する動詞なんてきっとおじいさんになって意味を忘れても言うだけはいえると思います。
しかし、おかげで0から30までは数えられるんですが31から先は考えないと出てこないんですよ。
繰り返しというのはすごい。でもまあ、繰り返しやっていないところは覚えてない。

経験というのは言葉を話す経験だけじゃなくて、人生経験も含みますね。言葉は生活習慣と密接にかかわりのあるものだから、その言葉のバックグラウンドを理解するだけの経験がないとやはり言葉は習得しにくいです。あたりまえのことだけれども西洋の生活習慣は僕らの中ではわりと理解しやすいものだから西洋語は習得がある程度楽だとはおもうけれど、アフリカ諸国の生活と言語はそうでないでしょう。そういう感じ。

楽観的思考というのはこれは大事なんだと思います。「ああ、どうしようわかんないや」とおもって黙ってるよりも「なんとかなるべさ」とおもって話すことが大事。
僕の場合はたいていこれでなんとかしてきたんですね。この間も新宿駅のJRの改札の内側で困った顔をしたアングロサクソン人が「マーノッチライン」に乗りたいから助けてくれと言って来たときに、なんとかなるだろうと適当な英語で案内しました。実際のところ英語だけじゃどうにもならないので(だいたいJRの新宿駅から丸の内線に日本語で案内するのだけでも結構骨の折れる作業ではあるし)「ついてきてくれ」といって案内したんですが。

でもまあ自分の英語の力のなさというのもこのとき同時に感じました。彼は「オペラ座の怪人を見に行くために新宿御苑に行きたかった」わけなのですが僕には「オペラの亡霊をみにシンジュクギョーン」にいくというふうにしか聞こえなかったのでオペラの亡霊がオペラ座の怪人でシンジュクギョーンが新宿御苑だと気づくまでに時間がかかったし、実際券売機まであんまり会話が持たなかったのですから。いや、まあシンジュクギョーン(Shinjuku Gyoen)なんてローマ字がわるいんですけど。(Shinjuku Imperial Gardenって書いてくれよ

まあ道案内程度は楽観的でいいかげんな言葉でどうにかなりますが、仕事となるとこれじゃだめで、昔当時の上司に「おまえの英語は通じりゃいいといういいかげんさがだめ。TOEIC受けないと減俸。」といわれて、そんなことで減俸されてもこまるのでTOEICを受けたんですがこれまたひどい点数をとったので「点数低いから減俸ね」といわれて必死に弁明したこと覚えがあります。ええと弁明するまえに勉強しろっていう話はナシで。

じゃあどうやって勉強したらいいのか、僕はまだ決定的な解決策を見つけられていません。
英語もスペイン語も本当に頭から抜けてしまっているようですが、忍耐力がないためにどうにもならなくて困っています。英語は映画も字幕読んでいるしスペイン語はステラかなえちゃんの顔しか記憶に残らないんですよ。困った。

困ったという話を長々と書いてもしょうがないのでこの辺で。どうでもいいですが、「ステラかなえ」って素敵な名前ですが名字はないのですね、彼女(の芸名)には。

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2004.11.29

ノイマン型コンピュータの限界

ちょっとマジメな話です。つまんないから読み飛ばしてもいいです。

仕事中に話をしていたところ

「それってでも最終的にはノイマン型コンピュータの限界なんだよね」というところに帰結してしまいました。

んー。10年前もだれかが「ノイマン型コンピュータの限界」といっていたし、20年前もだれかが言っていたんじゃないでしょうか。

コンピュータをつかって仕事をしている人(また、それそのものが仕事の人)の多くが持っている命題「高速化」。この問題に立ち向かうべく、いろんな技術革新があるわけです。
だけどまあ、多くの問題は高速化をしても解決しないか、もしくは高速化そのものがうまくできないという問題でもあるんです。だから、「ノイマン型コンピュータの限界」という言葉が出てきちゃうんだけど、それを言っちゃうと今までのことはなんだったんだということになってしまうような気もします。

10年くらい前、インテルはCPUの高速化はクロック周波数を上げることで解決しようとしました(あたりまえといえばあたりまえ)が、周辺回路はCPUのクロック周波数にあわせて周波数をあげていくといろんな問題がでるということで、倍速で動くようにしました。486DX2のことです。当時CPUは50MHzとかいう周波数でしたが、周辺回路を50MHzにするのはいろんな問題がありました。アナログ回路でいえば50MHzは十分高周波(超短波)ですから、あたりまえの話です。それ以降周辺回路とCPUの速度は倍率の関係になっています。
50MHzの周辺回路の周波数が無理だった時代から時は流れ、製造技術の進歩からいまは周辺回路が400MHzで動く時代です。CPUは3GHzになりました。3GHzなんて電子レンジの周波数ですよ!

それでも、やっぱ、「ノイマン型コンピュータの限界」ということはずっと今後も言われていくんだろうなと思います。

高速化における別の手法「並列化」だとかのはなしはまたこんどきが向いたら。

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2004.11.14

ファミ・コン言葉

いつだったか、昼間のテレビでコンビニとかファミリーレストランでの従業員の間違った敬語を話題にしていた。
これを「ファミ・コン言葉」と称していたんですが、そういう言い方も丁寧な日本語じゃないですね。

言葉というのは時代によって移り変わるので、「正しい日本語」なんていうこと自体ナンセンスという議論もあるのですが、言葉というのはコミュニケーションにおいて非常に重要なファクターをしめるわけで、一つ間違えば人間関係をメチャクチャにしてしまうものなのですから、気を使って使いたいものです。
僕はそういう意味では気を使った場面では非常にトラディショナルな日本語を使います。まるで日本語を勉強している外国人のように。

さて、相手に対して失礼のないような日本語の使い方としては梶原しげる氏が本を出しています。梶原しげる氏といえばTVチャンピオンで大食いのチャンピオンとかの横にいるイメージですが、それは彼のひとつの側面でしかなく、ライフワークのようなかたちで日本語のことについていろいろ考えていて、講演なども行っています。

口のきき方 新潮新書

氏は実は僕の学校の先輩です。
言葉をつかさどる仕事をし、その言葉について考察し、そしてそれを仕事に生かし、またライフワークとするというのは、まさしくロゴスの使徒であるなあと実感します。

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